Vegan についての考察 Ⅱ・・・?
当店は、VEGANと謳っているCAFEですからやはり、出来る限り誤解のないように・・・と、
10月1日の「きれいな心で食べる」の続編のような記事を書かせて頂くことにします。
一度自分の考えをちょい出ししてしまうと、つい、後には引けなくなってしまうものですね。(笑)
前回のVEGANについての考察(と言うほどの立派なものでもないんですが)で私は、
『たとえVEGANであっても、いいえ、たとえ肉食をしていても
心のあり方こそ、最も大切なことだと思います。』
と、書きましたが、
誤解を避けるためにも、そのあたりの私の考えをもう少しきちんとお伝えしなければ・・・と思いました。
私は子どもの時から、動物を食べるのは絶対いやだ!と、学校で給食の落ちこぼれになり、
また「わがままな子だ」と母にいつも叱られ、心配もさせながら、自然にべジタリアンになりました。
いつも他人からは「肉を食べられないなんてかわいそうに」と言われてきました。
肉を食べないことは、自分にとって当然で普通の事でしたが、世のほとんどの人は肉を食べているのですから
完全にマイノリティなわけです。
そういう観点からも私の立場は、「私は動物を食べるのは嫌だけど、食べるのも自由。他人の生き方には干渉しない」
というものでした。
でも、音璃をオープンする少し前に、ある出来事で衝撃を受けて、考えが変わりました。
実はその頃、友人のニワトリのお世話(実際は、餌を上げに行っていた程度)を週に一度していて、
ある日、いつも他のニワトリにいじめられていた、一羽の茶色のニワトリが、おそらくそのいじめのために倒れこんでいて、
とうとう死んでしまう時に私は遭遇しました。
他のニワトリは、小屋に入ると一斉に逃げるのに、そのニワトリだけは何故かいつも逃げずに近寄って来る
という不思議なニワトリでしたから、いつの間にか特別にかわいく感じていました。
ブリジットと名前が付けられていたので、いつも名前を読んでいて、何だか友達のようになっていたのだと思います。
死ぬ時も「ブリジットーーー!!!」と、思わず叫び、その後一週間ほど可哀想で、悲しくて、毎日泣いていました。
他のニワトリには大きな声で
どうして仲間をいじめるの?!あんたたちがいじめたからブリジットは死にそうなんだよ!
仲間をいじめちゃだめ!悲しいよ。
神様に悔い改めをしなさい!
などと、後で考えるとニワトリにそんなこと言っても・・・苦笑
と、自分でも笑える内容の説教を思わずしました。
でもその時、不思議なことが起こったんです。
数羽いたほかのニワトリが一斉に、それまで一度も聞いたことのない不思議な声を出し、
叫ぶように、しばらくの間天を見上げながら鳴いたのです。
あれは、なんだったのか?はっきりは分かりませんが、私は勝手に、彼らに私の思いが通じ
本当に神様に向かってごめんなさいを言ったのではないか?と、受け止めています。
でも・・・ブリジットにどうしていいかも分からず、傷口に酵母くんを垂らしたり、祈ったり、
「ブリジットー!」と、名を呼び続けたけれど、
彼女は死んでしまいました。
毎日悲しくて泣いていた時、
たかがニワトリのためにそこまで・・・と、笑われもしましたし、
自分でもなぜこんなに心が痛むのだろう?と考えました。
が、気づかされたのは、
動物は人間にとって友達になり得る存在であり、やっぱりそこに「いのち」が息づいている、
そして、たとえ動物であっても、いのちは創造主と繋がっているのだ
というようなことでした。
この時の体験は、創造主が私にお与えになったことだと思っています。
実際、聖書では創造主が動物を、人間の食べ物として創ってはいません。
そして・・・この時から、
「私は動物を食べるのは嫌だけど、食べるのも自由。他人の生き方には干渉しない」という立場から
思いが変わったのです。
最も大切なのは、心のあり方です。でも・・・
いのちについて、もう一度考えてみませんか?
そして・・・できれば友達を食べるのは、もうやめませんか?
音璃の立場は、こんな感じです。