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愛を追い求める

イエス様を私の主と信じます!と告白し、水のバプテスマを受け、

イエス様に全て捧げます…などと言っていても、

「兄弟姉妹を愛する」という

たった一つの主イエスの戒めを実行できない人の、なんと多いことか…

悲しく残念なことだ。

 

聖書にはこうある。

 

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。

目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

                           ヨハネ第一の手紙4:21

 

「あなたの、その目に見える兄弟姉妹を愛しなさい。」

と、主イエスは言っておられるのに、肉の人=霊的幼児にはそれが分からない。

 

愛するとは、相手のために「寛容、親切、ねたまず、自慢せず、高慢にならず、

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、相手のした悪を思わず、

不正を喜ばず、真理を喜び、すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、

すべてを耐え忍ぶこと」

互いに真実を語り、偽りを言わず行わず、誠実を尽くす。

そして・・・裏切らない。

裏切りとは、イエス様を売ったイスカリオテのユダの行為だ。

 

これらの努力を、

神様に与えられた目の前の兄弟姉妹に対して惜しまないこと

である。

 

もし、このような努力を兄弟姉妹に対して行い続けるなら、

必ずその人は霊的に成長する。

出来るかどうか?の結果ではなく、

あくまでも「努力を惜しみなく続けること」が、

神様に捧げる捧げものとなる。

 

 そして、それこそが「主イエスを愛すること」なのだ。

 

 

 

しかし、これが最もむずかしい。

 

なぜなら、自分=エゴを殺すことになるから。

 

「イエス様を信じる」とは

一瞬のことではなく、継続的なことである。

信じるとは、彼を愛することだし、愛するとは「彼に従うこと」

そして、それはずっと続く。

 

イエス様は完全なお方だから、あまりにも不完全でもともと罪深い私たちが

この地上でそのように歩むことは、成長し聖められるための

素晴らしい神の方法なのだ。

 

これは、頭の中のことではなく、非常に実際的だ。

だから、スピリチュアルなことに見えないが、実は

最もスピリチュアルなこと。

 

多くの人は、いわゆる「スピリチュアル」を勘違いをしている。

 

神によってエゴが死ぬこと、

それは目の前の兄弟姉妹を愛することによって完成に近づき、

それこそが聖めであり、真のスピリチュアルなのだ。

 

「愛すること」は、幼稚なままではできない、ということが

聖書には暗示してある。

 

悲しいかな、現代は幼稚な人が多すぎるように思う。

 

コリント人への手紙第一13章
たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。 
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。 
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 不正を喜ばずに真理を喜びます。 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
 完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。 
私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。 
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
14:1 愛を追い求めなさい。