· 

霊的な礼拝

以前このブログについ、聖書に関することを書いてみたことがあって、

どうせ誰も読んでいないだろうけど…などと高をくくっていたら

意外にもちゃんと読んで下さっている方々がいらして反響があり、

中には質問まで下さる方もいて、驚きました。

やはり、こんな時代ですから真理を求めているのですね。

とてもうれしい気持ちになりました。

で、今回はちょっと堂々と?書くことにしました。

こういう内容に興味のない方は、長くなると思いますので

スルーして下さって構いませんが、今回の内容は5月21日の朝にまだ眠っている時 

聖書の言葉と共にイエス様に啓示されたものなので、重要なメッセージと思います。

 

【霊的な礼拝】

多くの者が礼拝について勘違いをしている。いや、サタンに騙され

欺かれている。

礼拝とは、皆がイメージしているような“切り取られたセレモニーの時間”

などではないのに、悪魔はキリスト教会を使って、全世界の人々をそのように錯覚させ、真理を隠している。

人間が時間を切り取るようなことなどできない。

「時」とは、神のものであり、支配しているのは神=創造主である。

 

創世記2章3節にある通り

「神が聖とされた創造の第七日目(日没~日没)だけが聖なるもの」だ。

これは、切り取ったというよりは純粋に、神が創造の七日目を

「ご自分のものとして分け隔てられた」という意味であり、

この神聖な事実を人間が変更することは、絶対に不可能である。

 

この「聖なる時」だけが、神の次元から霊的にやって来ているのだ。

 1,2,3,4,5,6,聖なる日・・・という風に

七日に一度のサイクルで聖なる日が、この地上が続く限り繰り返しやって来る。

 

創造主が6日間かけて作られた被造物(光、大空でさえ)は、肉眼で確認可能だが、

7日目の安息日だけは時間なので見ることができない。

「時は霊的世界=神の次元のものである」という真理がここに明示されている。

 伝道者の書3章にもある通り。

 

それなのに、ほとんどの人はそのことを知らず、

或いはこの「聖なる(神の)時」をないがしろにしてきた。

それは、「聖」を汚すことであり、なんと「神ご自身を汚す」ことであると

神ご自身が言っている。

エゼキエル書22:26  ※22:8,23:38にもあり。

その祭司たちは、わたしの律法を犯し、わたしの聖なるものを汚し、聖なるものと俗なるものとを区別せず、汚れたものときよいものとの違いを教えなかった。また、彼らはわたしの安息日をないがしろにした。

こうして、わたしは彼らの間に汚されている。

 

悪魔は、人類を最も罪深くさせようと、全力をもって狡猾に働いてきた。

考えてみてほしい。神ご自身を汚すほど、恐ろしい罪があるだろうか?

 

キリスト教は、悲しいかな真理のイリュージョンのベースとなっており、

教会の宗教儀式によって全世界の人々を惑わすことに貢献している。

その内の代表的なものが「礼拝」或いは聖日礼拝、主日礼拝である。

 

主イエスは、ヨハネの福音書4章21節~24節において、礼拝についての真理を

サマリアの女に示された。(主はいわゆる宗教人ではなく、この世では罪深いと思われていた女に啓示したところが素晴らしい!)

 サマリアの女は宗教的束縛(3次元的錯覚)の中に居たため、礼拝セレモニーを行う“場所”について主に質問したが、主の答えは当然「霊的次元からのもの」だった。 

ヨハネ4:21~24

キーワードは、「(真の)礼拝者たち」×2回

「霊とまことによって(礼拝する者)」×2回

そして「時」×3回である。(合計7回=神の完全数)

 

主は私に「この“時”=神の支配に人は近付くはずが、片や遠ざかる」と言われた。

主が預言した、21節「そういう時」22節「その時」「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時」は、

主が宣言された時点から神の前に完成しているが、

キリスト教による宗教セレモニーをスタンダードであるかのように

先に長年見せられ続け、その錯覚により呪縛されたままなら、

この「時」に近付くことは難しい。

伝道者の書3:1~にある通り、

「時」とは、初めから神が支配している霊的なものである。

もう一度繰り返すが「礼拝」とは、宗教セレモニーの切り取られた時間であるかのように、サタンは人類を錯覚させ、騙して来た。

そうではなく、父なる神は「真の礼拝者たち」を求めておられるのだと、主イエスは明言された。霊とまことによって父を礼拝する人々の存在=beingをこそ求めておられる

のだ。

それはとりもなおさず“生き方”であり、自分自身(我)を神に捧げる有り様なのだ。

パウロも言っている。

「あなたがたのからだを聖い生きた供え物として捧げなさい。

それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

人類はサタンのあまりに狡猾な欺きによって、多くの神の聖い真理をいつのまにか

肉的価値観とのハイブリッドと思い込んできた。

 

「霊的でない礼拝」など存在しない。

「神は霊」(ヨハネ4:24)なのだから、礼拝こそ初めから霊的なものであり、

3次元的(空間)に制限されるわけがない。

霊とまことによって神を礼拝する礼拝者=「わたしを遣わした方のみこころを行いそのみわざを成し遂げ」ようと自分自身を神に捧げようとする者(4:34)を

神は求めておられる。

これこそ、主イエスの弟子として生きる者であり、

その者は「真理を知り、自由になる」(ローマ12:1、ヨハネ8:31~32)

誰しもが「真の礼拝者」となる「時」が到来したのだと主は宣言した。

もし、本当に主イエスの御言葉にとどまろうとし、弟子として歩み始めるなら、

その「時」はあなたのものだ。

これこそ、霊的な礼拝実現の「時」である。