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驚くべき【神の国と神の義】の奥義①

あなたがたは、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
マタイ6:33
※これらのもの=何を食べるか何を飲むか何を着るかなど…地上で生活するために必要な物一切(31節)

上記の御言葉は、メシアなる主イエスが私たちに保証してくれた素晴らしい約束の一つだ。
神の国とその義を神に求めるなら、「神の国とその義」だけでなく、地上生活に必要な物すべてはオマケのように付いて来る!!!という驚くべき約束だ。

私の知るところ、殆んどのキリスト教会では、
人が神の国とその義とを熱心に「追及する」生活をし続けるならば
神は必要な物すべてを与えて下さる…という風に教え、信者もそのように信じて努力する。
私も長年そう信じて、一体どうすることが神の国とその義を求める(追及する)ことになるだろうか?と熱心に祈り、日常生活の選択の度に苦しんだものだ。
※例:就職先の候補が複数あり、どちらを選ぶことが神の国とその義を追及することになるでしょうか?などと祈る。給料の額などでは決めず、神の御心を求めて選択する。
また、仕事する中で問題が起こり、その度に大小様々なチョイスや対応が迫られる時に「この場合どうすることが、神の国とその義を追及することになるか?」と考えて考えて祈って…選びとる。

事によっては、その判断をするのはなかなか困難で、もちろん祈るのだが
私個人は本当に苦悩して来たものだ。

しかし2018年12月31日、なかなか眠れなかった旅先の朝早く、3時前後に閃きのように光が入り、
それまでの捉え方(信仰)は、
「まず自分が頑張らなければ」という“肉の努力“とのチャンポンだった…と、間違いがはっきり照らされた。

それまでの自分の信仰の在り方、歩みは、「人間自らが努力すると神からご褒美がもらえる」というようなギブ・アンド・テーク的交換条件付き発想、この世の中の価値観が入り込んでいた、と気付いた。
地上で生きてきた私たちには、その方がいかにももっともらしく感じるものだが、間違っていた…と悟らされた。

「神の所有する国」なのに「自分が必死に追及する」などというのは、人間の高慢にしか過ぎなかった…。

まさに、頭をガツーンと殴られた感覚で、数日間泣いて泣いて神様に悔い改めた。


その後から私は、至極単純に子どものように
「主よ、どうぞ私にあなたの国とあなたの義とをお与え下さい!」と毎日祈るようになった。
そして分かったことは、
信仰ってこんなに楽チンで良かったんだーということ。
長い間、なんて遠回りして来たことか!
そして、なんて主に失礼なことをして来たことか!

そうだ!
主は霊的祝福も物質的祝福も、両方とも私たちに与えて下さる気前の良いお方なのだ。
まさに、ヨハネ1:16にある通り。

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」

恵み=一方的祝福どころか、まさに恵みの上のさらなる恵み‼️
恵みの2階建て!!!

ハレルヤ!
なんと素晴らしいことだろうか!


神の国とは何か?については、新約聖書の中に何度も何度も書かれてあり、理解できるかどうか?は別としても、主からのメッセージはこれでもかと言うほど溢れている。

しかし、「神の義とは何か?」は、不思議なことにイエス様は一切具体的に話しておられない。

その理由は、私たちが肉的努力で追及するのではなく、素直に単純に御言葉通り
「神の国とその義とを神に求めて祈る」ことをするなら、実際に神の国がこの地上生活に現れて来る。
それにつれて、神の義も共に、神が表して下さる(伴って来る)ことになっているから
ではないだろうか?と思う。

実際、私にはそれが起きた。


だから、ルカ8:31の御言葉には「何はともあれあなた方は、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて与えられます。…」と、「神の義」は敢えて抜かしてあるのだろう。


聖書全体(パウロによる手紙など)によれば、もちろん「イエスキリスト御自身が神の義なる方」そのものであり、信じる私たちを「義」として下さる、と神が約束されている。(使徒22:14、ローマ3:26、第二コリント5:21etc)

つまり、本来罪人の自分たちを義=神の目から見ての完全な正しさ
として下さる主イエスをひたすら求めなさいということであろうか?

それは確かに正解であり、御心にかなってはいる。
しかし、それだけでは何か釈然とせず、さらに奥深い真理が隠されていそうで、それに関して私は元々長い間、その奥義を知りたいと、神に向かって祈り求めて来た。


そして、幼子のようにシンプルに、「神の国とその義をお与え下さい」と求め始めてちょうど3年経った2022年2月3日朝、久しぶりに思わず異言(霊の言葉)が腹から溢れて来て、突然のように「神の義」について目がひらかれた。