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茶番の世界で真実に生きるために

前回の続きのようになるが、私は偽善が嫌いだ。
「偽善」と一言で言っても色々あるかもしれないが
とにかく、嘘…しかも自分自身をごまかす=偽ることがイヤなのだ。

そんなことをしたら何だか、心が落ち着かず気持ち悪くなる。

そして、そういうことが「平気でできちゃう」人も
人として信じられないと思う。

何故、こうなったのかな~?と
考えてみた。

ひとつは、両親の生真面目さの影響を思う。
父は、真面目を絵に描いたような人だった。
タバコもお酒も全くせず、自分を遊興で楽しませることもなく、
サボテンや花や家族を大切にし、
警察の仕事も真摯に取り組んでいた。
とある町を毎晩
何年間も真面目にパトロールして、
その町から暴力団を完全に排除して平和にした
と表彰され、新聞記事になった。
後に叙勲もされ…

というような立派な警察官だった。
母も警察官の妻として真面目に仕え、嘘のできない不器用で真っ直ぐな人だった。

とはいえ、そんな両親に比較して
私はチャンランポランな人間だと思っているし、
あんな生真面目にはなるまい…などと思っていた。
しかも事実、若い頃は好き勝手に
家出して、ヒッピーのように生きていた。

でも、子どもの頃
私の受けた教育が特殊だった。
立派な教育者、桂元三校長の
「子どもを変革する教育」という革新的教育をモデルクラスとして、
小学校で四年間受けた。
テキストを読み、それについて自分の頭でじっと考え、
自分の口を使って一回の授業中に一人必ず一度は人前で表現しなければダメ…
しかも自ら手を挙げて発言し、「私もそう思います」とか「賛成です」などの発言はNGで、
自分自身の言葉を使っての発言が求められた。

こういったルールの国語の授業は、徹底的な自己認識と言語表現の訓練になった。
とは言っても、皆が皆、同じように影響を受けた訳ではないかもしれない。
私は国語が得意科目で、毎回朗読も当てられたし、
とにかく真面目に積極的に取り組んでいた。
あの時受けた影響は、もの凄いものがあったのだと、今頃つくづく分かって来た。

その時の担任教師を実は私はあまり好きになれなかったのだが、
それでも彼女のいつもの口癖の影響が大きい。
それは
「裏表のない、陰日向を作らない子どもになりましょう!」だった。

子どもって素直なんだと思う。
小学生の私は
「そうか~!陰日向はダメなんだ。裏を持っちゃダメなんだ。」
といつも思っていた。

さらに、私は小学生の時から
動物の肉を一切口にしなかった。
誰に言われたわけでもなく、
ただ「あの生きている牛や豚を食べるなんて!絶対嫌だ!動物は食べるべきじゃない。」
と確信し、何がなんでも食べなかった。
そのために、母に叱られ喧嘩もし、
学校ではほぼ毎日
給食の落ちこぼれ生徒になり
お昼休みは一切遊べず、教室に居残っていた。
それでも、私にとって
動物の肉を食べるよりはマシだった。
あの毎日の生活…。

不登校にもなったが、
私にとって深い意味があったのではないか?と
思っている。

さらに私はちょうど当時、
母の趣味で
小学校二年から日本舞踊・藤間流を学んだ。
しかも、師匠は
他の人には教えず、
私だけに教えたいと言って
毎週二回、きっちりキツく教えてくれた。
母は、「あのお師匠さんが、あなただけに教えたいと言ったのはきっと才能を見たからかも知れない。」などと言っていた。
友達が公園で気楽に楽しく遊ぶのを横目にしながら、何度もサボりたいと考えた。
しかし、母にバレるのは分かりきっていたから
サボらずお稽古に行った。
お稽古は、始めるといつもナチュラルハイ🎵になった。
お師匠さんがニコリともせず、
しっかりキツく教えてくれるものだから、いつも集中して汗だくになり、
毎回まるで瞑想のようだった。

あの経験も、私には深い意味があった気がする。

そして決定打は
大人になってから
私の信じた主イエス様の真実!

聖書の言葉によるものだ。

イエス様は、真実そのものだった。
本当のことしか言わなかった。
ズルさ・計算は、欠片も存在していない。
100%相手を愛し、全てを神のために生き、
嘘・ごまかしがなかった。

彼は、人間を恐れず、聖い神にただ従った。

そんなイエス様を知り、私は心底惚れたのだ。

それからウン十年…
私は、「イエス様に従いたい」と生きてきた。

だけど、偽善だらけ、嘘八百の世の中。
知らず知らずの内に私自身の中にも
嘘が流れて、
何が真実か?分からなくなっていた。

そして今。

茶番が闊歩する。

だからこそ、
偽善は払拭したい。
嘘、ごまかしを忌み嫌いたい。

神様が与えてくれた意味深い体験を反芻し、

主イエス様を見上げながら、真実に生きたいと思う。