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愛があるねぇ~

 

私がヒッピーと言われて生きていた頃
「おとうさん」という友達がいた。
なぜ「おとうさん」と呼ばれていたのか?
その理由を私はしらなかったけれど、
みんなが呼んでいるので私もそう呼んでいた。

彼は、確かに小さな女の子のお父さんではあったが、
周りより特に年が多いわけでも、
また、いかにも「おとうさん」っぽい落ち着いた雰囲気を持っているというわけでもなかった。
子持ちの人がまだ少ない中で、事実お父さんとして、
家族で旅をしているからなのかな?と
勝手に解釈していた。

彼には
特徴的な口ぐせがあった。

それは、周りの人たちの言動を見ていて実にしみじみと
「愛があるねぇ~」
ということだった。
その言い回しが、いかにも思いが込もっていて、
やけに説得力があるのだった。
その言葉が出ると、
「来たー!」
という感じで、周りはいつも和んだ。

でも時には、
心底ガッカリして、批判的な雰囲気も醸し出しながら
「愛がないねぇ~」
ということもあった。

私は、「おとうさん」家族3人を居候させたぐらいで

彼とさほど親しく関わってはいなかったから、
私の言動についてそういうジャッジを受けたことは
多分なかった。

でもまだ20代で若かった私には、
彼のそのジャッジが、まるで正統性があるかのように感じられて
もし自分が「愛がないねぇ」と言われたらどうしよう…
と思っていた記憶がある。

しかも、いつのまにか周りにいた仲間たち皆が、
彼のジャッジを一切否定することなく、受け入れていた。

あの頃のヒッピー仲間は、あまり非難や批判や戦いをせず、
「そんなこと、どうでもいいじゃない?」
という言葉がよく交わされて
やる気のない退廃的な雰囲気が漂っていた。

そんな中で、「おとうさん」の
「愛があるねぇ~」
というしみじみなポジティブジャッジは、
まるで光のようなものを感じさせていた気がする。

自分たちの言動をふと振り返ってみるきっかけを作ってくれていた。

彼の基準は、「そこに愛があるかどうか?」
だった。

正直に言って、
彼自身が特に「愛の人」であるようには、
私には見えなかった。

だから、彼の判断は正しかったかどうか分からない。

けれども
判断基準を「愛があるかどうか?」にしていたこと
それ自体は正しかったと思う。

さあ、いったい何が愛か?
どうすることが「愛する」ことなのか?

愛のスケールは難しい。
あらゆる場合、あらゆる場面でスケールが違うのが「愛」だと思う。

しかしいつも、「これは愛かどうか?」
「私は愛しているのか?」
と、自分の心を測ってみることは大切だ。

とはいえ、私は自分で測れるほどの者ではないので、
いつもイエス様に祈って、
愛=天意
を求めて生きることにしている。

そして時々、「おとうさん」の
あの、しみじみなイントネーションを思い出している。

「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、
また私のからだを焼かれるために渡しても、
愛がなければ、何の役にも立ちません。
…こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で、一番すぐれているのは愛です。
愛を追い求めなさい。」
(第一コリント13~14)